虹彩の宝石箱 小説置き場

一次創作“虹彩の宝石箱”の関連小説置き場

青銅蒼−4 ひとり

 ふと気が付くと、一人で立っていた。

 建物の中じゃない。外だった。どこか見覚えがあるような景色。

 ここ、どこだっけ。

 いつの間にか降ってきていた雨が座り込んだ僕の体を濡らす。

 ああ、ここは──あの日。叔父に会ったところだ。

 僕が住んでいた村からも、青銅の家からもそこそこ遠い場所。

 不意に視線を落とすと、手には血にまみれた包丁。……叔母が持っていたものだ。

 何故こんなものを持っているんだろう。何でこんなところにいるんだろう──

 ぼんやりとする頭を無理矢理働かせ、記憶を探る。

 

 ──叔母に切り裂かれた藍は、為す術なくその場に倒れた。

 喉ごと切り裂かれたからだろう。声になっていなかったが、悲鳴をあげようとしていたのがはっきりと判った。

 彼女の身体から勢いよく吹き出した血は、身体が倒れ込むと同時に次々と地面に流れ出ていく。

 視界の端で、叔母が凍り付いたのが見えた。

 彼女に纏わりついていた黒いものが見えなくなっている。正気に戻ったのだろうか。

 包丁が音を立てて床に落ちる。

 その音に突き動かされるように、僕は藍に駆け寄っていた。

 いつの間にか、あの重苦しい空気は幾らか軽くなっている。

「藍!」

 自分でも驚くほどの大きな声が、狭い部屋に反響する。

 藍が大きく咳き込む。口から大量の血が溢れ、飛び散った。

 生きている。

「い……今、手当を……」

 包帯を取り出そうと、着物を探る。

 今更そんなことをしても、もうどうにもならない。分かっている筈なのに。

 でも、可能性を考えてしまった。もしかしたら、と思ってしまった。

 村の皆が死んで、母さんも殺され──唯一残った家族さえも失ってしまいそうな状況。

 家族が2人とも目の前で殺されようとしている事への絶望感。

 僕はとっくに冷静な判断が出来なくなってしまっていた。

 ──包帯を出そうとした手が、そっと抑えられる。

 すっかり血の気が無くなった、真っ白な手。

 いつもはあんなに元気なのに、今はとても弱々しい。 

 視線を向けると、藍は諦めたような表情で笑っていた。

「……ありがとう」

 口が動くのと同時、更に血が溢れ出す。

 それを全く意に介さない様子の彼女は、いつか見たような──

「だけどもう……無理だよ。こんなじゃ、いくらなんでもさ」

 眉を八の字に寄せて、微笑む藍。

 あの時の母さんと、全く同じ表情。

「お願い。蒼……早く逃げて。どこか遠いところに行って」

「……!」

 その言葉を聞いた瞬間、一気に肝が冷える心地がした。

 青ざめる僕に、彼女は思い出したように続ける。

「お母さんが言ってた。私、人間の血の方が多いの。だから蒼よりも傷、治りにくいし……沢山血が出たら死んじゃうの」

「え……」

 初耳だった。

 人間の血が多い?どういうことだろうか。そもそも何故?

 僕らは双子だ。血は半分ずつ分けられているはずなのに。

「でも蒼は、まだ生きられるよ」

 同じだと思っていた。藍が僕より傷が治りにくいなんて、知らなかった。

 彼女は僕と違って怪我をすることもめったに無かったから、それで気づきにくかった──?

「蒼なら怪我しても、大丈夫かもしれないけど……でも私。蒼が怪我するとこ見るの、もう嫌だな」

 どく、と心臓が鳴る。そういえば、僕の怪我を一番心配していたのは……彼女だ。

 重ねられた手がどんどん冷たくなっていく。

 叔母は、まだ立ち尽くしたままだ。

「だから、今のうちに逃げて。“怪我”しちゃう前に。早く──」

 言葉が途切れ、藍の手が力なく滑り落ちた。掠れた声が耳に届く。

「ごめんね。私……先に、お母さんのところに、行ってるね」

 藍が、静かに目を閉じた。

 笑顔のまま。普通に眠り込むように。

 わずかに聞こえていた息の音は、完全に聞こえなくなってしまった。

 

 ──何か、壊れるような音が聞こえた。

 

 意識が遠のく。

 暗くなっていく視界の中で、それは確かに聞こえた。

「お前……ッ!」

 口を動かした記憶はない。そんな体力も気力も無かった。

「お前──お前……なんて事を!この少女は、唯一の拠り所だったのに!」

 でもこれは──確かに、僕の声だ。

 叔母が混乱している様子で僕を見ている。

 僕も何がなんだか分からなかった。

 ……式さん?

 いよいよ僅かな意識も保てなくなってきた。周囲の音もゆっくりと消えていく。

 最後に聞いたのは、何か刃物が擦れるような音──そして、誰かが息を飲んだ音。

 

 ──ここから先は記憶がない。

 あの後、式さんは一体何をしたんだろう。

 もしかしたら、意識が途切れたのは彼女の配慮なのかもしれない。

 ふと顔をあげ、隣にいるはずの少女に声を掛けようとして……彼女が、もういないことを思い出した。

「あ……」

 誰もいない。

 母さんも藍も皆。もう、二度と会えない。

 身体から流れ出た血。地面を満たす赤色──光景が、じわじわと蘇ってくる。

「──!!」

 先程の光景が……藍の身体から吹き出た血が、ゆっくり体温が無くなっていく身体が、次々と頭に浮かんでは消える。

 途端に何かが強く込み上げ、口を抑える。

 咄嗟に俯いた時──包丁が目に入った。

 血が付いた包丁。まだ乾ききっていない赤い液体が、地面に広がっている。

 

 ──藍を殺した、包丁。

 

 突き動かされるように手を伸ばした。

 包丁を持ち上げ、目の前に掲げ──そのまま、思い切り腹に突き刺す。

 ざわ、と空気が揺れた気がした。

「ぐ……ぅ……っ」

 鈍い痛みが全身に走る。が、そんなことはとっくに意識の外だった。

 包丁を引き抜き、もう一度──

 勢いのまま何度も体を切りつける。

 腹、腕、足……とにかく、全身。

 手が届くところを手当たり次第刺して、切ってを繰り返す。

 このときの僕は、とにかく早く彼女らのもとに行くことだけを考えていた。

 早く。僕も早く、二人のところに──

 身体のあちこちから流れ出た血は、すぐに僕の全身を赤黒く染めた。

 周囲に飛び散り広がった血が、激しい雨に流されていく。

 “普通の人間”なら、とっくに死んでるぐらいの重症。

 でも、僕は普通の人間じゃない。

 それを今、嫌になるほど実感していた。

 浅い傷じゃ、直ぐに血が止まってしまう。深くつけたはずの傷も、片っ端から治っていく。

 何度やっても、きりがない──

「何で……」

 藍の言葉を思い出した。

 僕には、妖怪の血が多く流れている。怪我は治りやすいし、簡単には死なない。

 だからって、ここまでしても死ねないなんて──

 気づくと、涙か溢れ出ていた。血と涙で、顔がぐしゃぐしゃ。

 だけどそんなこと、気にしてられない。

 最後にもう一度、包丁を持ち上る。腕から血が滴って顔に落ちてくる。

 傷口に雨が当たって、その度に痛みが走った。でも、もうどうでもいい。

 包丁の柄を震える両手でしっかり持って、首に刃先を向ける。

 もう……これしかないか。

 そのまま思い切り突き刺そうとした時──

「──っ!」

 突然だった。

 急に誰かの足音が聞こえ、続いて勢いよく両腕を掴まれる。

 とっさに振りほどこうとしたけど出来ない。かなり強い力で掴まれているようだった。

「あ……蒼ちゃん……?」

 名前が呼ばれたことに驚いて、両手から力が抜けた。

 怯えたような、震えた声。それでいてどこか暖かいような、柔らかい声……

 ──随分久しぶりに聞いた気がする、とても懐かしい声。

 顔をあげる。そこには、最後に見たときよりも幾分か大人っぽくなったような、そんな少年の姿。

「やっぱり、蒼ちゃんだよね」

 

 茜……?

 

 一部だけ紺色の、真っ白い髪。赤色の目は、何だかあの頃より少し色が明るくなったように見える。

 ──何でここに?

 彼がいたのは村の近くの森のはず。ここは、あそこから結構離れているのに。

「何……してるの」

 彼の顔は強張っていた。腕を掴む手が小さく震えている。

 久しぶりに会った友達。本来なら再開を喜ぶべきなのだろうが、そんな余裕も感情もとっくに無くなっていた。

「……離して。僕は──僕には、もう……」

「え?」

 困ったような声をあげながらも、彼は手を放してくれない。

「蒼ちゃん……どうしたの?今まで、どこにいたの?何で、一人なの?ねえ、何で、なんで…」

 いつの間にか、彼は泣きそうな顔をしていた。小さい頃はよく見ていた表情。

 真っ青な顔で立て続けに聞いてくる。

「──何で。死のうと、してるの」

「……!」

 一瞬、彼の瞳が濁ったように見えた。

 思わず俯いてしまうが、でも──

「……茜。離して」

「何で?……嫌だ。答えてよ」

 答えを濁そうとするも、彼は執拗に「何で」を繰り返す。段々腕を掴む手にも力が籠もっていくようだった。

 正直、少し驚いた。彼がここまで自分の気持ちを主張してくることなんて、今まであっただろうか。

 だけど、僕も僕で焦る気持ちがどんどん大きくなっていく。

 早く。早く、皆の所に──

「……僕、死ななきゃ駄目なんだ。早く、二人の所にいかなきゃ」

 視界の隅で、彼が目を見開いたのが僅かに見えた。雨の音が強く響く中、一際震えた声が耳に届く。

「……何で」

 それまでよりも、低い声だった。こんな声、小さい頃にだって聞いたことが──

「……嫌だ。嫌だよ……蒼ちゃん。やめて。ねえ……お願いだから、やめてよぉ……」

 言葉が次々に吐き出される。

 気づくと、雨とは違う幾つかの雫が僕を濡らしていた。

 彼が……茜が。体を震わせ、涙を溢していた。

 彼の両手に、痛いくらいの力が込められる。

 流石に顔を上げて彼の姿を見て──今までとは違う、何かよくわからない感覚が背中に走った。

 あの重苦しい、真っ黒な空気とは違う。

 全身に冷たい水を掛けられたような……どちらかといえば、“恐怖”に近い感情。

 思わずもう一度腕に力を込め、無理矢理にでも動かそうとする。──その時。

 

「ぼく……もう、一人になりたくないよ……」

 

 衝撃。それこそ、雷が体を貫いたような。

 唖然として、彼を見上げる。彼は、ハッとしたような、『しまった』という表情で此方を見ていた。

 まるで昔、彼の言葉で僕が反応に困ったときみたいな……

 多分、彼にとって今の言葉は昔の“それ”と同じようなものだったのだろう。

 だけど、僕にとってはそうじゃなかった。

 ──そうだ。彼は昔から、極端に寂しがりな所があった。

 一人になるのをとても怖がって、いつも誰かに付いてきていて──

 そのことをすっかり忘れていた。

 それどころか……この数年間、僕はずっと自分達が生き残ることだけを考えていて、彼のことなど完全に頭から抜けていた。

 途端に言葉にできない感情が沸き上がってくる。

 身体に力が入らなくなり、腕が自然に下がっていった。

「……ごめん。僕、君のこと……」

「え?」

 茜が目を丸くする。

 先程と同じ、困惑したような声。だけど、先程と比べると妙に間の抜けた響きにも聞こえた。

「な、なに……」

 戸惑った様子の表情と声。僕は軽く首を振って答える。

「僕……君がいること、忘れてた……今までずっと。あんなに仲良くしてくれたのに。いっぱい、遊んだのに──」

「……蒼、ちゃん……」

「ごめんなさい……僕、君にどれだけ寂しい思いを……!“友達”なのに、僕……ッ!」

 また涙が溢れてくる。

 駄目だ。僕が泣いてる場合じゃない。

 本来なら、泣きたいのは茜の方だろうに──

 しかし。必死に止めようとすればするほど、涙は更に溢れ出てくる。

「ごめん。ごめ──」

 どうにもならず、ついまた謝ってしまう。

 そんな僕の身体が、不意に暖かい何かに包まれた。

「……え」

 持っていた包丁が音を立てて地面に落ちる。全身から緊張が解けたように力が抜けていった。

 気が付けば、優しく抱きしめられていた。小さい頃、母さんによくされたように。

 呆然として、口を動かすことも、視線を移動させることさえできない。

 ──少し遠慮がちに僕を抱き締めている茜は、暫くしてから口を開いた。

「……ぼくの方こそ、ごめんなさい。ぼく、またわがまま言っちゃった」

「え……?」

 やっと顔を上げる。

 違う。君が謝ることなんて無い。

 ……それは、結局言葉にならなかった。

「村、見に行ったんだ。蒼ちゃんがいなくなってから」

「!」

「……酷かった」

 声が震えている。あの光景を思い出したのだろう。

 当然だ。あんなのを目の当たりにして平気でいられる人なんてそういない。

「蒼ちゃん、大変だったんだよね。会えなかった間、色々あったんだよね。蒼ちゃんがこんなことするくらいだから、あれよりもっと酷いこと……あったんでしょ?」

「あか、ね?」

「蒼ちゃんが辛い思いしてたのに。ぼくこそ、自分のことばっかりだ」

 不意に、背中に回された手が、強くなる。

 僕は未だに呆然としたまま声も出せない。

 茜は……こんなに沢山喋る子だっただろうか。こんなに、大人びた雰囲気だっただろうか。

「──蒼ちゃん。ぼく……今は何も聞かないから。落ち着いたら、後で何があったか教えて。ゆっくりでいいから。

 ぼく、全部聞くよ。嫌なことでも辛いことでも、何でも。だから……」

 少しだけ身体が離れ、茜の表情が間近に見えた。

 目が合うと、彼は少しだけ微笑む。

 

「ねえ、蒼ちゃん。……涙、我慢しなくても良いんだよ」

 

 色々なものが、一気に込み上げる。

 ──駄目だ。もう、我慢できない。

 

 それから。思いっきり、声をあげて泣いた。

 人が見られているとか、そんなこと考えていられなかった。

 多分、あれは人生で一番泣いた瞬間だったと思う。

 

 僕が泣いている間、茜はずっと傍に居てくれた。彼も涙を流して──でも、優しい笑みを浮かべていた。

 ……生きてた頃の、母さん達に似てる。

 すぐ傍にある彼の体温が、とても暖かい。

 軽く背中を擦ってくれたのも、何も言わずにただ傍にいてくれたのもとても嬉しかった。でも、何よりも──

 今は彼の……茜の存在それ自体が、僕の一番の救いだった。

青銅蒼ー3 不運続き

 二人きりになってから数年。どのくらい経ったかも忘れてしまった。

 言うほど長い時間は経ってないような気もする。数えてないから分からない。

 

 天井を見上げる。ここに来てすぐの時も思ったが、随分豪華な灯だ。もし落ちてきたりでもしたら、ただじゃ済まなそう。

 まあ、無駄に豪華なのは天井だけではないけれど。

 辺りを見回す。

 青銅家の本家──母さんの実家。

 僕と藍は今、ここに引き取って貰って暮らしている。

 

 村からとにかく離れようと、がむしゃらに走ったあの後。

 どこまで来たか分からない、どこかも分からない遠い場所で、流石に休もうと座り込んでいた時。

 そんな僕らを見つけ、心配し、声をかけてくれた人がいたのだ。

 そして、どんな偶然が分からないが、それが叔父だったことが分かった。藍が『お母さんに似てる』と呟いたのがきっかけで。

 僕らも驚いたし、向こうも相当驚いていた。

 でも、おかげでそこからはとんとん拍子に話が進み、結果的にここに引き取ってもらえることになった。

 姪だとわかったからとはいえ、随分優しい人だ。……母さんに似てる。

 そういうわけで、僕と藍は本家の──母さんが使っていた部屋を、二人で使っている。

 

 それにしても母さん、こんな広い部屋に住んでいたのか。

 元は母さんが一人で使っていたらしいこの部屋は、僕と藍が二人で過ごしていても十分なくらい広い。何ならもう一人いても良いくらい。

 居心地は悪くなさそうなのに、一体どうしてあの村に移り住むようになったんだろう。

 叔父が言うには、本当に急に居なくなったらしいけれど──

 理由も告げず手紙もよこさずに、突然だったらしい。そのため叔父もここの人も、誰一人として僕らの存在すら知らなかったとか。

 自分で言うのも何だが、それでよく引き取ったものだとおもう。

 ここにいるのは叔父とその奥さん、その二人の娘。それから数人いる通いのお手伝いさん。

 二人の従妹……年齢は、見たところ僕らと同じくらい。

 とはいえ彼女らは人間だから、僕らとは少しどころじゃなく年は離れている。

 藍とは時々、親しげに話してる姿を見かける。ただ僕はちょっと……ここに来て大分たった今でも、そんなに言葉を交わしたことがない。

 あの2人は何か、言葉に棘があるような気がする。藍は普通に接しているけど、僕はあまり仲良くなれそうにない。

 まあそれでも、叔父は気を使ってくれてるし、叔母も一応従妹達と同じように接してくれてる。

 もちろん母さんがいた頃の事を忘れることは無かったけれど、不満などは全くない生活をしていた。

 

 ──けれど、不運は終わっていなかった。

 

 平穏だったのは最初の数年だけ。

 何がきっかけだったか分からない。いや、変わり続けていたのに気が付かなかっただけだったかもしれない。

 まずは従妹二人。

 いつだったか声高に叫んでいたが、彼女らはもともと僕のことをあまりよく思っていなかったらしい。

 まあ僕みたいな愛想無いの、あまり印象良くないのは当然だろう。僕だってあんな刺々しい声色で話す人らと仲良くする気はあまりない。

 ……いや、こういうところか。

 藍や叔父夫婦の見ていないところで、いじめのようなことをするようになった。

 何度傷つけてもすぐに治るのを気持ち悪がって、暴力は日に日に強くなっていく。

 最初は全く反応しないようにしていた。別に困ることもなかったし。

 もともと、怪我をすることなんて珍しくなかったし、怯えたりすれば彼女らは調子に乗ると思ったから。

 他に被害がいかないなら、別にこのままでもいい。

 傷を見られて心配されることも勿論あったけど、藍や叔父には上手く誤魔化してやり過ごしていた。

 僕の問題で、彼女らに心配を掛けたくなかったから。

 ……だけど、さすがに2、3ヶ月も続いてくると、流石に隠しきれなくなってきた。

 自分ではあまり自覚できていなかったが、どうやら日ごとに表情が無くなっていたらしい。

 元から表情豊かな方だとは思っていないけれど、それでも心配されるほどだからよほど酷かったのだろう。

 藍には申し訳ないことをした。どのくらい不安な思いをさせたんだろう。

 けれど、この2人だけだった頃は、まだ良い方だったらしい。

 

 次は叔母。

 数年経って従妹達はそれなりに背が伸びたのに、ここに来た頃とあまり変わらない僕らを見て流石に気味悪くに思ったらしい。

 彼女が僕らの出生についてよく知らなかったらしいことも原因か。叔父には話していたから、てっきり伝わっていると思っていた。

 それからやっと叔父に僕らの事を聞いたらしい叔母は、あからさまに僕らを避けるようになった。

 ついでに、段々と嫌味や暴力も増えていく。もちろん、叔父には気付かれないように。

 その内、従妹とも結託するようになったのには本当に参った。

 何が最悪だったって、今回は被害を受けたのが僕だけじゃなかったこと。

 今回は藍まで虐待を受けるようになってしまった。

 いつも明るい笑顔を浮かべていた彼女も、だんだんと笑顔が無くなっていく。

 少し前まで僕が心配されっぱなしだったのに。今では逆に、僕の方が彼女を心配するまでになっていた。

 いつも元気な藍のことだから、余計に変化が目立ったのかもしれない。

 いつしか彼女は、話しかけると疲れたように笑うだけになった。

 

 ──ああ、情けない。

 僕は姉なのに。彼女を守らなくちゃならないのに。

 母さんの代わりにならないといけないのに。

 

 藍を守ろうとここまで来たはずが、結局このざまだ。

 いつの間にか、悔しさを感じながらも暴力に耐えるのがすっかり日常になっていた。

 ……三人がかりでの暴力行為が始まって、ちょうど二ヶ月経った辺り。

 僕はもうすっかり慣れてしまったけれど、藍の笑顔が明らかに弱々しくなっているのは正直見てられなかった。

 そのくらいの頃だったろうか。不思議なことが起こるようになったのは。

 具体的には──時々、僕の記憶が途切れることが多くなった。

 従妹たちの嫌味を聞いていたはずが、いつの間にか部屋に戻っていたり。記憶に無い話が、藍の口から出てきたり。

 叔母たちの僕を見る目も、段々神妙なものを眺めるようなものになっていく。

 ただ、そんな状況になる心当たりが全く無いのだ。

 それについて一度藍に聞いてみたが、どうやらここ最近の僕は突然人が変わったようになることが増えたらしい。

 何だが口が悪くて、手が出るのもわりと早いのだとか。

 あまりにも別人のようだし霊気も感じないため、藍はいわゆる“別人格”だと認識していたようだった。

 直接聞こうと思ったことはあったようだが、藍と話す時には出てこないので、聞くに聞けなかったとか。

 一体何なんだろう。少し気味が悪い。──そう思っていたが、それからわりと直ぐに答えを知ることになった。

 その頃、僕は暇潰しにその日あったことを紙に書き連ねていた。

 いわゆる、日記?

 もっとも、最終的には完全に愚痴の吐き出し場所のようになってしまったけれど。

 陰湿ではあるが、そうすることで少し気分を晴らしていた。

 問題はその日記に、書いた記憶のないことが書き込まれるようになったこと。

 しかも妙に会話調で、まるで僕に語りかけてでもいるような文の書かれ方。

 “私”などと言っているのを見るあたり、どうやら女性であるらしい。

 不思議に思わなかったことは無かったけど、僕は日記を通して『彼女』と会話するようになった。

 そしてそれは、僕の毎日の楽しみにもなってきていた。

 怖さなどは特に無かった。昔から、そういう話をよく読んでいたから。

 物が勝手に動くのは元の家ではよくあることだったし。今更幽霊だ妖怪だと言われても何ら疑問は湧かない。

 一度、彼女に聞いたことがある。

『君、誰?』

 意外なことに、その答えはすぐに来た。

 ふっと意識が遠くなったと思ったら、気がついた時には新しい文字。

『式』

 その一文字だけ。

 式?それ名前?変なの……

 今となっては意識が遠のいたことをもっと不思議に思うべきだったが、当時はそんなこと全く気にしていなかった。

 それから彼女と色々話をして、どうやら彼女は数ヶ月前から僕に憑いていたらしいことを知った。

 さらに、今まで従姉妹らに歯向かっていたのも、彼女だったらしい。

 全然気が付かなかった。それに、藍も何も感じていなかったのは何故だろう。

 ただ一応、僕を守ってくれていたことになるのだから悪いものではなさそう。

 何故守ってくれていたのかまでは教えてくれなかった。

 その日からは、話し相手ができたお陰か以前よりも辛くなることも無かったけれど──

 藍には……結局最後まで、彼女の存在を話せなかった。

 

 打ち明ける前に、二度と話せなくなってしまった。

 

 きっかけは、藍の「変な部屋がある」という相談。

 ある日夜に目を覚ました時、変な音がした気がして部屋の外を少し覗いてみたらしい。

 そうしたら、叔母が今まで使っているのを見たことがない部屋に入っていくのが見えた──と。

 廊下の一番奥の部屋。誰の部屋でも無いはずの場所。

 夜中は勿論、昼間にも誰かが出入りしているのは見たことがない。

 あろうことか、藍はその部屋に行ってみようと言い出した。

「いや、やめといた方が……また何か言われたら面倒だよ」

 そう言って、止めはした。

「大丈夫だよ、ちょっと見てすぐに出れば良いし!」

  ……が、押しきられてしまった。

 どうしてこんな状況で、そう前向きな考えが出来るんだろう。そう思ったが、もしかしたら無理にそういう態度を取っていたのかもしれない。

 あの子は、そういう子だ。

 不安はあった。でも、彼女の気分転換になるのならと、一緒に行くことを決めてしまった。

 そのままだと、藍は一人ででも行きそうな勢いだったから。

 

 ……嫌な予感はしていた。何となく感じていたのだ。霊や妖怪とは違う、もっと禍々しいものの気配。

 藍の様子も、思えば少しおかしかった。

 止めれば、よかった。

 

 妙に足取りが軽い藍に着いていき、その部屋の前に着く。

 途端に悪寒が全身に走る。

 それに、何か部屋の中から変な臭いがする。

「じゃあ、行くよ」

 咄嗟に止めるよりも先に、藍が戸に手をかける。

 待って──と、言う暇も無かった。いや、声が出なかった。

 扉を開け放った途端……僕らの表情は、完全に凍りつく。

 途端に強くなる臭い。目の前に広がるのは、何時か見たような光景。

 同時に、先程からじわじわと感じていた嫌な気配も一気に濃くなった。

「……え?う、嘘……」

 藍が、その場にへたりこむ。

 ……真っ赤に染まった、部屋の床に。

 そこに広がっていたのは、あの日村で見たような血の海。

 倒れている、いくつかの知らない死体。

 「これは……」

 込み上げる吐き気と悪寒を必死に抑え、それに近づく。

 ここ数年で、そんなことが出来るくらいには、すっかりおかしくなってしまったらしい。

 それにしても、これはどういうこと?横たわる数々の死体は、多くの“足りない部分”があった。

 腕、足……ああ……お腹が無い人もいる。

 訳が解らなくて、周りを見渡そうとした時──藍が息を呑む音が、聞こえた。

「あんたたち…何をしているの?」

 視線を向ける。

 叔母が。無表情でそこに立っていた。

 手に包丁を持って。

「お、叔母さん……それ、何?この部屋は……」

 恐る恐るといった風に、藍が彼女に尋ねる。すると叔母は、藍の方を少しだけ見た。

「何って、夕食の材料を取りに来たんだけど?あんた、邪魔だからそこ退いてくれる?」

 そう、何事もないように言いながら。

「……はあ?」

「え……?」

 何を言っているんだ、この女。

 夕食の材料?この部屋に何があるというのだろう。

 ここにあるのは、数々の人間の死──

「なっ……い、いつから!?叔父さんは……他の皆は、知ってるの!?」

 最悪な考えに辿り着いたのと同時、藍が叫ぶ。

 ──ありえない。

 昨日の夕食が、不意に頭によぎる。

 

 僕らは、何を喰わせられていた?

 

 どうにか逃げなければならない。そう思うものの、重苦しく暗い何かに身体が抑えつけられている。それが何かは判らないが、……“動けない”。

 一方、叔母はごく普通の様子で答える。

 ──いや、明らかに普通では無かった。

「いつから、って。知らないわ。ああ、あの人には言わないでね、面倒なことになるから」

 藍が呆然と目を見開く。

 僕も言葉が出なかった。

 『知らない』って、何だろう。でも、何にせよ僕らはずっと──

 先程よりも強い吐き気に襲われる。

 最初は、こんな人じゃなかったはずなのに。

 よく見れば、“何か”が彼女に纏わりついているのがはっきりと視えた。

 真っ黒で、もやのようではあったけれど──あの時と同じ、大きな棘。

 ──もっと早く気付くべきだった。

 叔母はそのまま、歩みを進めようとする。

 そこに、藍が立ちはだかった。

「ちょっと、待ってよ!ちゃんと、説明……!」

 藍だって相当怖いはずだ。でも、正義感が強いのも彼女の長所。

 この状況に、どうしても納得がいかないのだろう。

 足を震わせながら、叔母を睨み付けた──その瞬間。

 叔母がいきなり顔をしかめ、金切り声で叫んだ。

「うるさい!邪魔よ!」

 勢いのまま、手にした包丁を思い切り振り上げる。

 ……そこからは、全てがゆっくりに見えた。

 目を見開き、凍りつく藍。

 そんな彼女に向けて、包丁を振り下ろす叔母。

 咄嗟に立ち上がり、駆け寄ろうとしたけど……やはり、叶わなかった。

 もやのような形状になったそれが、これまでよりも強く身体を抑えつけてくる。

 藍も同じだったのだろう。逃げようとしたようだが、間に合わない。

 

 包丁が勢いよく振り下ろされる。

 それは──思い切り、藍の体を切り裂いた。

青銅蒼-2 血の海

 男の子と出会ってから、結構な時間がたった。

 あれから頻繁にあの子と会うようになって、いくつか分かったことがある。

 まず。村の人達が話していた“化物”は、どうやらやっぱり彼のことだったらしい。

 昔から災害や事故が起こるのが何となくわかる──と、言っていた。

 でも話を聞く限りだと、別に彼が“呼び寄せてる”わけでは無さそうだった。

 もしかしたら、“災いを呼ぶ化物”なんてのは……そもそも勘違いなのかもしれない。

 災害を伝えようとしたら──ってことも、確か言っていたから。

 

 それから、彼には名前が無かった。

 正直、最初は信じられなかった。人間じゃないというのは本人も言っていたし、疑ってはいなかったけれど。

 妖怪でも、名前はあるものだと思っていたから。……母さんの友達の、芙蓉さんみたいに。

 まあ……人間じゃないなら、名前を付けてくれる人がいなかったなら……それも仕方ないのかもしれない。

 そう、無理やり納得した。

 でも、やっぱり名前が無いと不便だ。呼べないし。

 何となくそんなことを漏らすと、彼は──僕に名前を付けてほしいって、そう言った。

 一瞬、冗談で言っているのかと思った。それか、いわゆる“あだ名”って意味で言ったのか、と。

 会って数日の、親でもない僕が“名前”を付けるなんて。そう思っていたから。

 だけど。そう言う彼は、あまりにも真面目な顔をしていた。

 冗談だって笑って終わらせるなんて、絶対出来ないくらい。

 だから、暫く考えて──結局、『茜』と呼ぶことにした。

 目の色……印象的な、茜色をしているから。

 少し女の子っぽいかなとも思ったが、存外気に入ってくれたようで安心した。

 そういえば、あの時は何であんなにせがまれたんだろう?……まあ良いか。

 

 それと。なぜか、茜は知ってることと知らないことの差がかなり大きい。

 たった数日間の間なのに、たくさんの事を尋ねられた。

 物の名前や言葉、文字、人間の習慣まで──

 その度説明をすると、彼は興味津々といった様子で相槌を打ってくれる。 

 この子って、どういう生き方をしてきたんだろう。

 話を続けるたび、会うたびに疑問が深まっていった。

 ただ……何となく怖くて、直接聞いたことは無かったけれど。

 

 ある日、茜を家に連れ帰って泊めたことがあった。

 寒くなってきたし、流石にこんな木の下にずっといるのもどうかと思ったから。

 申し訳ないからって首を横に振る茜を、何とか説得した。

 それから一応、大人の人に見られないように──もう一方の森の出口から、裏の方を通って行った。

 事前の連絡もろくにしてないし、もしかしたら怒られるかも……と、思ったけど。

 意外なことに、藍も母さんもあっさり受け入れてくれたし、母さんなんかは新しい着物を縫ってあげていた。

 新しい、綺麗な着物を着た彼は、暫くはもの珍しそうに自分の姿を眺めていた。でもすぐに、鏡を見ながら嬉しそうにしていたのが印象に残っている。

 その笑顔を見ている内、何故だか僕まで嬉しくなったりしてきたりして──

 ──それから。母さんだけでなく、藍の方も茜を気に入ったらしい。

 手を引いて家の中を案内したり、お姉さんみたいに本を読んであげていたり……とにかく楽しそうに、世話を焼いていた。

 肝心の茜が少し引いてしまっていたくらい。

 でも、流石は藍。いつの間にか、茜ともすっかり仲良しになっていた。

 そういえば、他の子達にも茜の事を紹介してくれたのも藍だ。彼女のおかげで、茜も皆と一緒に遊ぶことが増えた。

 白い髪に赤い目なんて珍しい見た目だから、流石に最初は皆かなり驚いていたけど。すぐに慣れて受け入れてくれた。

 ──もちろん、茜が“マガヅレ”と呼ばれている化物そのものであることは隠して。

 正直、そのことは藍どころか母さんにも伝えてない。

 それを伝えてしまったら、どういう反応をされるか……怖かったから。

 皆にも受け入れられてきて、最初は不安がっていた茜もだんだんと笑顔が増えてきた。

 とはいえ、大抵は僕と茜の2人で話をしたり、遊んだりすることが多かった。

 

 ──そうして茜と一緒に過ごしていくうち、少し気になったこと。

 あの子は、妙に“寂しがり屋”なところがある気がする。

 普通ならそんなこと気にする必要なんて無い。でもあの子は、何か……

 普通の人とは、少し違うような──

 1番強くそう感じたのは、僕が遊びの誘いを断った時。

 そういう時、茜も必ず遊ぶのを断って僕に付いてくる。それで結局、その日はまた2人で話をして過ごすのだ。

 茜だけ皆と一緒に遊びに行くなんてことは、思い出してみても一切無い。

 それに、茜が自分から僕以外の誰かに話しかけようとすることも、僕が知る限りでは全く無かった。

 それだけで、と思われるかもしれない。僕も最初は全然気にしていなかった。

 嫌だと思ったことも特になかった。何となく、まだ皆に慣れていないんだろうとばかり思っていたから。

 他の人よりも寂しがり屋なだけ。もしくはまだ、他の人たちと完全に打ち解けられてないだけ──言ってしまえばそうなのかもしれない。

 僕に会うまではずっと一人でいたみたいだし、藍達に紹介するまでは僕としか遊んでいなかったのだから。

 ここの村の人達には一度殺されかけたこともあるわけだし、他の人を怖がるのも無理はないかもしれない。

 ──本当にそれだけだろうか。

 茜は、僕が帰ろうとすると必ず悲しそうな顔をする。それに、他の人と話す時は必ず僕の手や服を握るのだ。

 邪魔をしないようにと他の場所に移ろうとしたことがあったけど、意外に力が強くて驚いた記憶がある。

 そういうときの茜は、まるで何かを怖がっているようで。

 怯えるような、すがるような目で僕を見てくる。

 一度話を聞いた方が、と何度も思った。でも、聞いてはいけないことがあるような気がして、どうしてもそれが出来ない。

 せめて母さんにでも相談するべきだろうか。

 ……迷っているうちに、そんな時間はすっかり無くなってしまった。

 

 茜と初めて出会った同じ、本当に普通の日だった。

 いつも通り外に出て、いつも通り茜と話し、いつも通りに家に帰る。

 ──普通の日の筈だった。

 

「な……なに、これ……皆……?」

 藍の声が震えている。

 僕は声すら出せず、その隣で呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 何故?

 僕達の視界いっぱいに広がっているのは──

 血の海。

 黒がかった赤が瞬く間にこちらまで広がってくる。

 村の人達が何人か、赤色に沈んでいるのが見えた。

 その中には、つい先程まで藍と遊んでいた子の姿もある。

 皆、身体に大きな穴が開いていた。

 何か打ち込まれたような、貫かれたような。

 丁度、丑の刻参りで使われた藁人形みたいに──

 重苦しい空気が肌に纏わりついてくる。

 頭が回らず呆然としていると、不意に藍が思い出したように叫んだ。

「……お母さん。お母さん!!」

 その声に、僕も我を取り戻す。

 そうだ。母さんは無事だろうか。

 もし、無事だったら──母さんならこの状況をどうにか出来るかも。

 もしかしたら、今まさに戦っている最中……かもしれない。それなら僕らも手伝わなきゃ。

 そんな期待が湧く。

 そうして、どちらからともなく家に向かって走り出した。

 この現実から、目を逸らすように。

 

 ……結論から言うと、母さんは、死んではいなかった。

 だけど彼女も血まみれで、生きているのが奇跡なほどの瀕死の状態に見えた。

 唖然としてしまった。今まで、こういうのは本の中でしか見たことがない。

 それに、母さんがここまで弱ってるなんて。何か妖怪が原因のこの状況じゃない、ということ……?

 混乱して、色々な考えが頭の中を巡る。

 藍が泣きそうな声で叫び、母さんに駆け寄るのが見えた。

 分かるのは、今僕が見ているこの光景が、現実なのだということだけ。

 酷い鉄の匂いが鼻に届く。

 これは現実で、大切な母さんが、目の前で死のうとしている──

「!」

 そこらで、ようやくしっかり我に帰った。僕も急いで、母さんに駆け寄る。

 そこでようやく気づいたが、彼女の身体にはもやのようなものが纏わりついていた。

 この村全体を包んでいるのと同じような、それが凝縮されたような、とてつもなく重い空気。僕たちは揃って顔を青くする。

 そんな中、僕らを見た母さんは安心したような表情をしたように見えた。

「逃げて」

 小さく唇が動く。固まる僕らに、彼女は苦しそうに口を開いた。

「逃げなさい。この村に留まっていては駄目。出来るだけ、遠いところに」

 弱々しくそう言い、僕らに微笑んで見せた。

 その口から次々に血が溢れ出してくる。

 藍が叫ぶ。

「どうして!?ねえお母さん、何があったの?皆、どうしちゃったの?何で、何で……」

 彼女の声には涙が混じっていた。僕は一言も発することが出来ない。

 彼女はそのまま、母さんに近づこうとして、

「危ない!」

 勢いのまま、咄嗟に彼女を抱き寄せる。

 風を切り裂く音がして、でも直ぐに静かになった。恐る恐る目を開く。

「…ぁ」

 そこには、真っ黒い“何か”に心臓を貫かれた母さんがいた。

 弱々しかった呼吸音も、既に聞こえない。

「お……お母さん……」

 震える声で藍が呟く。

 

 ……死んだ。死んでしまった?

 母さんが。殺された……?

 

 母さんの心臓を貫いたそれは“棘”のように見えた。とはいえ、植物にしてはあり得ない場所程大きい。

 そして、かなり長く僕らの眼前まで伸びていた。

 あの時判断が遅れていたら、藍も……

 そう考えると、背中に冷たいものが走る。

 ……だけど、その正体が何かなんて考える暇も無かった。

「──!」

 突然、それがまるで意思を持っているかのように動き出す。

 ぐちゃ、と“何か”の音が聞こえた。

 そしてそれは、ゆっくりと、此方へ焦点を定める。

「っ!」

 動けなくなっている藍の手を引き、何とかそれをかわす。その瞬間、母さんと目があった。

 暗い瞳。ぐちゃぐちゃになった液体が溢れだしている。

 ああ──母さんの顔、あんなに綺麗だったのに。

 その瞬間、母さんの「逃げなさい」という声が、頭に蘇った。

 勢いよく藍の手を引き、 走り出す。

「蒼!?」

 彼女の驚く声が聞こえるが、気にする余裕は無い。

 守らなくちゃ。せめて、この子だけでも。

 ここから……この村から、なるべく遠いところへ。

 必死だった。とにかく逃げないと、とそればかりで。

「あ、蒼まって……足、早いよう……」

 息も絶え絶えといった様子の藍の声が耳に届いたが、立ち止まることはできなかった。

 これからどうするかなんて、何も考えていない。

 遠くへ。もっと安全な場所へ──

 

 その時の僕は、様々な感情で頭が一杯になってしまっていた。

 恐怖、焦燥、混乱──他にも色々。

 藍が僕を迎えに来た、その数刻の間に起こった惨劇。

 妖術師の母さんでさえ対処できなかった、強大で禍々しい“何か”。

 本の中でもそうそう見ないような急展開に慌てて、すっかり忘れてしまっていた。

 ──森の中で一人で待ってる、寂しがり屋のあの子のことを。

青銅蒼-1 白髪の男の子

 人間で言うところの小学生くらいの頃。

 僕には昔、母さんと双子の妹の藍、2人の家族がいた。

 藍は僕と違って明るくて社交的。母さんも少し抜けているところがあるとはいえ、とても優しい人だった。

 ……温かい、幸せな家族。

 

 藍は普段友達と遊んでいて、僕も時それに々誘われる。

 小さい頃は僕も一緒に遊んでいたが、最近はあまり混ざってない。少し離れた大木の下で本を読みながらそれを眺めていた。

 読む本は大体……怪談話とか、妖怪についての話。単にそういうのが好きだというのと、理由はもう1つ。

 ……母さん曰く、僕達双子は“半妖”らしい。半分は人間の母さんの血で、もう半分は妖怪の血というわけだ。

 まあでも確かに、傷の治りはかなり速い。切り傷程度なら深くても1日で治る。

 そういえば、他の子達に比べて成長もゆっくりだ。同じくらいの見た目の子より、僕らの方が5歳くらい歳上だったりする。

 妖力は──これに関しては、母さんが生まれた家は皆妖力を持ってるらしいから、詳しくは分からない。どちらの影響なのか。

 そして。僕らはこれまで、“父さん”についての話を一切聞かされたことがない。

 当然会ったこともないし、どんな妖怪なのかすら知らない。

 藍が母さんに何回か聞いていたのを見たこと有るけど、何故か母さんは曖昧にはぐらかすばかり。藍も不思議がっていた。

 僕は表向き、興味無いふりをしてはいた。けど、完全に興味が無かった訳じゃない。

 だからこうして、本を読んでいる。僕らに似た妖怪が、父さんがどんな人なのかの手がかりが見つかるかもしれないから。

 ……とはいえ。そこまで熱心に知りたい訳でもないけれど。

 

 ──その日は、いつも通りに木の下で本を読んでいた。遠くで皆が遊ぶ声が聞こえてくる。

 そんな中。何時頃かも分からないが、突然村の方が騒がしくなってきた。

 ふと顔を上げたと同時にそれに気づき、どうしたのかと思っている内。遊んでいた筈の藍が駆け寄ってきた。

「蒼!」

「……どうしたの?」

 そう聞くと、彼女は不思議そうに少し首を傾げて答える。

「私もあまりよく知らないんだけど。何かね、出たんだって!」

「出たって何が?……え、幽霊の類?」

「あ、いや。そうじゃないけど……」

 なんだ。本に目を戻す。

 幽霊じゃなかったとしたら妖怪だろうか。何にしても、母さんがいるから大丈夫だろう。

「ちょ、待って!聞いて!」

 が、藍は変わらず少し慌てた様子で話しかけてくる。

「あのね。森の方に“マガヅレ”が出たんだって!皆それで騒いでた。今、大人の人達が武器を持って森に入ってて」

 聞き慣れない言葉に、思わず顔をあげる。

「……“マガヅレ”?って、何だっけ」

「え?あー、えっと。確か、たまに山奥から降りてくる……妖怪?」

「妖怪……?」

「う〜ん、妖怪……化物?よく分かんないけど。それが来ると、近い内に何か災害が起こるんだって」

「あー……じゃあ、それで皆」

「うん。災いを呼ばれる前に殺さないと……ってなってるみたい」

「へぇ……」

 そこまで聞いて、ふと疑問が湧き起こる。

「“呼ばれる前に”?」

「あ、うん。皆はそう言ってた」 

 そんな話をしていると、不意に騒がしさが無くなった。森の方から出てくる人達が見える。

「あっ、話聞いてくるね!」

 そう言って駆け出す藍。そのまま待っていると、彼女はすぐに戻ってきた。

「『逃がしちゃった』って」

「逃げた……」

「うん。でも、攻撃は当たったからもう暫くはこないだろうって」

「……そうなんだ」

「それに。また下りてきてもお母さんがいるし、大丈夫だろうって。安心して良いって、言ってたよ。

 ……そういうわけだから私、また皆と遊んでくるね!」

 言い終わるとそのまま、藍は遊び場へ走っていってしまった。元気だな。

 戻った藍は、すぐまた他の子達と遊び始める。もうこっちには視線も向かない。

 それを確認し、読んでいた本に栞を挟む。そして、立ち上がり、軽く走って“森”へと向かう。

 マガヅレ。今まで読んだ本の中に、そんな妖怪の話は一切無かった。

 逃げてしまったんなら、今から行っても意味が無いかもしれない。でも。

 ……なんとなく、嫌な予感が消えなかった。

 

 森へ入り、なるべく奥の方へと進む。

 見失ったというなら、“それ”は結構奥まで逃げたんだろう。元々は山奥にいるという話らしいから、住処に戻ったのかもしれない。

 ……でも、怪我をしているならあまり遠くには行ってなかったりするだろうか。

 分からないまま歩いていき、大分奥まで歩いていった時。

 不意に目に飛び込んできたものに思わず息を呑んだ。

 ……血、だ。血痕。

 点々と続いているそれは、ここよりもさらに奥までずっと続いていた。

 なるべく音を立てないように慎重にそれを辿り、ある地点でふと足を止める。

 そこはもう、僕が入った地点からは大分離れた場所だった。といっても、一周回って森の別の入り口に近い場所。

 入る方向間違えたな……なんて呑気な考えが浮かんだ。

 ──血痕はまだ続いている。長い草を掻き分けて進んでいくと、急に開けたところに出た。

 こんな場所あったんだ。辺りを見回してみると、

「……ッ!」

 突然聞こえた息を呑む音。思わず声がした方向を見て、目を見張った。

 ──子供!

 男の子だ。見たことのない、僕と同じくらいの見た目の子。

 一部だけが紺色の真っ白な髪に紅い目。髪の色も目の色も、本の中でさえ見たことが無い。

 木の下にうずくまっていたその子は、僕に怯えた視線を向ける。

 左目が隠れそうなくらい長い前髪。よく見なくてもわかる、ぼろぼろの着物。

 ……が、正直僕が見ていたのはそちらではなく。

「それっ、足……!」

 右足が、血で真っ赤に濡れている。かなり深い傷の様だった。 

 あまりのことに思わず声を出すと、男の子は大きく震え、直後に呆けたような表情になる。

 でも、それを気にしてる余裕は無かった。僕は男の子に駆け寄り、すぐ隣にしゃがみこむ。

 懐から包帯や布を取り出し、まずは血を拭こうと傷口に手を伸ばすと──その子は驚いたように足を引っ込めた。

 それを見て気づく。……そういえば、警戒されて当然の状況だ。

 とりあえず落ち着かせようと、深呼吸して静かに声をかける。

「それ……足。痛くない?手当て、しないと」

 そう言うと、男の子は本気で驚いたような表情になった。少しの間僕を見つめ、それから何か考えるように俯く。

「逃げて……行かない……」

「え?」

 突然聞こえた、小さな声に思わず固まってしまった。

 俯いているせいで顔がよく見えなかったが……今のは、目の前の彼の声だろうか。

 とても震えた声だった。

「な……何。逃げるって?」

「……」

 男の子が顔を上げる。今度は、信じられないとでも言いたげな表情に見えた。

「……ぼくのこと見ただけで、どっかにいっちゃうから」

「え?」

「大きな声を出して、すぐに走ってどこかに行って……刀とか弓を取ってきて、ぼくを殺そうとする……」

 少しずつ、小さいままの声でつぶやき、男の子は不意に視線を落とした。

「……さっきも、矢で……」

 彼の視線の先には──血に濡れた足。

 一瞬傷に視線を向けた彼は、すぐに顔を背けて苦しそうに固く目を閉じた。

 一方の僕は、彼の話を聞きながら、先程までの藍との会話を思い出す。

 災いを呼ぶ化物が出て。大人の人らが武器を持って、退治しようと──

「──あ」

 不意に声をあげた僕、また体を跳ねさせる男の子。

 咄嗟にごめん、と一度謝る。それから、改めて彼に向かって頭を下げる。

「ご……ごめんなさい。君を撃ったの、多分……僕の村の人達だ」

 途端、時間が止まったかと思った。僕は勿論、男の子も何も言わない。

 何故だろう?顔を上げると、彼はいよいよ恐ろしいものでも見ているような、強張った表情で固まっていた。

 お互いに無言の時間が続く。

 暫くすると、男の子が口を開いた。何か、決心したように。

「そう……、なの……?」

「……うん。ごめん。──とにかく、すぐに手当てするから」

 もう一度、手当てをしようと手を伸ばす。

「……何で?」

「え」

 顔をあげる。最初よりは随分落ち着いたらしい男の子は、意味がわからないといった顔をしていた。

「それじゃ……何で君は……」

「……?なに?」

「だ……だって。村の人……何か言われたり……」

 それを聞いて納得する。

 要するに、文句を言われるんじゃないかと心配してくれているわけだ。

 肩の力を抜いて、首を横に振る。

「ううん、大丈夫。関係ない。もし何か言われたとしても、それは君のせいじゃないから」

 男の子は、出会った直後の時のように呆然と僕を見つめていた。

 そしてすぐに、思い出したようにゆっくりと怪我した足をこちらに差し出す。

「ありがとう」

 なるべく痛まないように、力を入れないように血を拭き取る。

 傷口に包帯を巻いている間、彼はじっと僕を見つめていた。

 

 ──包帯を巻き終わる。

「よし……終わり。傷が開くといけないから、治るまであまり動かないでいて」

 そう言い、辺りを軽く見回す。

 別の入口に近いとはいえ、改めて見ると結構奥まった場所だ。そう簡単に人が入ってくるようなことは無いだろう。

「……ここなら、多分誰にも見つからないから。入り口も見つかりにくいし」

 そう付け足す。物珍しそうに包帯を見つめていた彼も、控えめに頷いてくれた。

「……ねえ」

「ん?」

「ぼく……人間じゃないのに。何で、怖がったりしないの?」

 思いもよらない質問だった。

 思わず何度か瞬きして、そらからやっと質問の意味を考える。

 そうして何も言えないでいる内、彼は言葉を続ける。

「ぼく、化物なんだって。災いを呼んでくるって……」

 その言葉を聞いて、また思い出す。

 ──“マガヅレ”。“災いを呼ぶ化物”。

 今度は、僕が息を呑む番だった。

「違うのに。ぼく、そんなんじゃ……」

 そこまで言って、急に彼の言葉が途切れる。

 見ると、いつの間にか真っ赤な目に大粒の涙が浮かんでいた。

 ……とても、話に聞くような化物には見えない。

 そもそも、この子が本当に“マガヅレ”なのか。確信すら無いけれど──

「君が化物なのか……僕は知らないけど。でも、もしそうだとしても、別に怖くはないよ」

「こわく……ない……?」

「うん」

 なるべく偽らずに。頭の中を整理しながら、思いのままを話す。

「それに……化物ってんなら、僕も同じだし」

 そういえば、とそんなことを話すと、男の子は目を見開いた。

 軽い気持ちで話したつもりが──予想外の反応に、慌てて言葉を続ける。

「僕……人間、なんだけど。半分だけなんだ。もう半分は妖怪。……だけど、何の妖怪の血が入ってるのか、全然分かんないんだ」

 正体不明の妖怪と、人間の子供。

「ね。僕も充分化物でしょ」

 少し自傷気味に笑って見せる。

「そう、なんだ……」

 一体、何を感じたのか。

 彼は静かにそれだけ呟いた。

 会話が途切れる。これ以上何を話せば良いか分からなくなって、つい僕も黙り込んでしまった。

 どうしよう。考えている内、ふと、いつの間にか空が朱く染まっていることに気付いた。

「──あ」

 男の子が顔を上げて僕を見る。そんな彼に向き直って、口を開く。

「僕……そろそろ帰らなきゃ。母さんたちに心配される」

 彼には申し訳ない気もするけれど、あまり遅くなりすぎても母さんと藍に申し訳ない。

 立ち上がって、地面に置いたままの布と包帯を拾う。そういえばこれ、後で洗っておかないと。

「それじゃあ。さっきも言ったけど、それ治るまでじっとしててね」

 いわゆる、“後ろ髪を引かれる思い”ってこういうことを言うんだろうか。

 ちょっと心残りがある気はするけれど、取り敢えず今日は帰ろうと来た道に足を向けた時。

 不意にくい、と着物の裾を引っ張られた。

「──」

 見ると、男の子が裾を掴んで僕のことを見上げていた。

「どうしたの?」

 聞き返すが、反応がない。

 ……と思ったら、案外すぐに顔をあげた。

 真っ白い髪が揺れ、赤色の両目としっかり目が合う。

「あの。お名前……何ていうの?」

「名前?……僕の?」

 あまりにも急な質問に思わず聞き返す。

 彼はこくり、と静かに頷いた。

「あ、えと。僕の名前は……蒼。青銅蒼」

「蒼、ちゃん……」

 慌てて返すと、彼はゆっくりと僕の名前を繰り返した。そして、もう一度改めて僕の方を見る。

「……ねえ。明日も、来てくれる?」

 どく、と心臓が鳴った。

 すがるような瞳だった。……何故?

 驚いて固まってしまいそうだったけど、すぐに微笑んで頷いて返す。

「もちろん。また来るよ、明日」

 それを聞いた彼は安心したように笑い、僕の着物から手を離す。

 ……あ。笑った。

 そういえば、初めて見る笑顔だ。

 そのことにもまた少し驚きつつ。僕は彼に軽く手を振り、森を後にした。

 

  ──それから、大樹の下に置いてきた本を回収し、家への道を走る。

 心なしか何時もより足が軽いように思えた。

 ……明日、楽しみだな。

 そんなことを考えながら。