ふと気が付くと、一人で立っていた。
建物の中じゃない。外だった。どこか見覚えがあるような景色。
ここ、どこだっけ。
いつの間にか降ってきていた雨が座り込んだ僕の体を濡らす。
ああ、ここは──あの日。叔父に会ったところだ。
僕が住んでいた村からも、青銅の家からもそこそこ遠い場所。
不意に視線を落とすと、手には血にまみれた包丁。……叔母が持っていたものだ。
何故こんなものを持っているんだろう。何でこんなところにいるんだろう──
ぼんやりとする頭を無理矢理働かせ、記憶を探る。
✽
──叔母に切り裂かれた藍は、為す術なくその場に倒れた。
喉ごと切り裂かれたからだろう。声になっていなかったが、悲鳴をあげようとしていたのがはっきりと判った。
彼女の身体から勢いよく吹き出した血は、身体が倒れ込むと同時に次々と地面に流れ出ていく。
視界の端で、叔母が凍り付いたのが見えた。
彼女に纏わりついていた黒いものが見えなくなっている。正気に戻ったのだろうか。
包丁が音を立てて床に落ちる。
その音に突き動かされるように、僕は藍に駆け寄っていた。
いつの間にか、あの重苦しい空気は幾らか軽くなっている。
「藍!」
自分でも驚くほどの大きな声が、狭い部屋に反響する。
藍が大きく咳き込む。口から大量の血が溢れ、飛び散った。
生きている。
「い……今、手当を……」
包帯を取り出そうと、着物を探る。
今更そんなことをしても、もうどうにもならない。分かっている筈なのに。
でも、可能性を考えてしまった。もしかしたら、と思ってしまった。
村の皆が死んで、母さんも殺され──唯一残った家族さえも失ってしまいそうな状況。
家族が2人とも目の前で殺されようとしている事への絶望感。
僕はとっくに冷静な判断が出来なくなってしまっていた。
──包帯を出そうとした手が、そっと抑えられる。
すっかり血の気が無くなった、真っ白な手。
いつもはあんなに元気なのに、今はとても弱々しい。
視線を向けると、藍は諦めたような表情で笑っていた。
「……ありがとう」
口が動くのと同時、更に血が溢れ出す。
それを全く意に介さない様子の彼女は、いつか見たような──
「だけどもう……無理だよ。こんなじゃ、いくらなんでもさ」
眉を八の字に寄せて、微笑む藍。
あの時の母さんと、全く同じ表情。
「お願い。蒼……早く逃げて。どこか遠いところに行って」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、一気に肝が冷える心地がした。
青ざめる僕に、彼女は思い出したように続ける。
「お母さんが言ってた。私、人間の血の方が多いの。だから蒼よりも傷、治りにくいし……沢山血が出たら死んじゃうの」
「え……」
初耳だった。
人間の血が多い?どういうことだろうか。そもそも何故?
僕らは双子だ。血は半分ずつ分けられているはずなのに。
「でも蒼は、まだ生きられるよ」
同じだと思っていた。藍が僕より傷が治りにくいなんて、知らなかった。
彼女は僕と違って怪我をすることもめったに無かったから、それで気づきにくかった──?
「蒼なら怪我しても、大丈夫かもしれないけど……でも私。蒼が怪我するとこ見るの、もう嫌だな」
どく、と心臓が鳴る。そういえば、僕の怪我を一番心配していたのは……彼女だ。
重ねられた手がどんどん冷たくなっていく。
叔母は、まだ立ち尽くしたままだ。
「だから、今のうちに逃げて。“怪我”しちゃう前に。早く──」
言葉が途切れ、藍の手が力なく滑り落ちた。掠れた声が耳に届く。
「ごめんね。私……先に、お母さんのところに、行ってるね」
藍が、静かに目を閉じた。
笑顔のまま。普通に眠り込むように。
わずかに聞こえていた息の音は、完全に聞こえなくなってしまった。
──何か、壊れるような音が聞こえた。
意識が遠のく。
暗くなっていく視界の中で、それは確かに聞こえた。
「お前……ッ!」
口を動かした記憶はない。そんな体力も気力も無かった。
「お前──お前……なんて事を!この少女は、唯一の拠り所だったのに!」
でもこれは──確かに、僕の声だ。
叔母が混乱している様子で僕を見ている。
僕も何がなんだか分からなかった。
……式さん?
いよいよ僅かな意識も保てなくなってきた。周囲の音もゆっくりと消えていく。
最後に聞いたのは、何か刃物が擦れるような音──そして、誰かが息を飲んだ音。
──ここから先は記憶がない。
あの後、式さんは一体何をしたんだろう。
もしかしたら、意識が途切れたのは彼女の配慮なのかもしれない。
ふと顔をあげ、隣にいるはずの少女に声を掛けようとして……彼女が、もういないことを思い出した。
「あ……」
誰もいない。
母さんも藍も皆。もう、二度と会えない。
身体から流れ出た血。地面を満たす赤色──光景が、じわじわと蘇ってくる。
「──!!」
先程の光景が……藍の身体から吹き出た血が、ゆっくり体温が無くなっていく身体が、次々と頭に浮かんでは消える。
途端に何かが強く込み上げ、口を抑える。
咄嗟に俯いた時──包丁が目に入った。
血が付いた包丁。まだ乾ききっていない赤い液体が、地面に広がっている。
──藍を殺した、包丁。
突き動かされるように手を伸ばした。
包丁を持ち上げ、目の前に掲げ──そのまま、思い切り腹に突き刺す。
ざわ、と空気が揺れた気がした。
「ぐ……ぅ……っ」
鈍い痛みが全身に走る。が、そんなことはとっくに意識の外だった。
包丁を引き抜き、もう一度──
勢いのまま何度も体を切りつける。
腹、腕、足……とにかく、全身。
手が届くところを手当たり次第刺して、切ってを繰り返す。
このときの僕は、とにかく早く彼女らのもとに行くことだけを考えていた。
早く。僕も早く、二人のところに──
身体のあちこちから流れ出た血は、すぐに僕の全身を赤黒く染めた。
周囲に飛び散り広がった血が、激しい雨に流されていく。
“普通の人間”なら、とっくに死んでるぐらいの重症。
でも、僕は普通の人間じゃない。
それを今、嫌になるほど実感していた。
浅い傷じゃ、直ぐに血が止まってしまう。深くつけたはずの傷も、片っ端から治っていく。
何度やっても、きりがない──
「何で……」
藍の言葉を思い出した。
僕には、妖怪の血が多く流れている。怪我は治りやすいし、簡単には死なない。
だからって、ここまでしても死ねないなんて──
気づくと、涙か溢れ出ていた。血と涙で、顔がぐしゃぐしゃ。
だけどそんなこと、気にしてられない。
最後にもう一度、包丁を持ち上る。腕から血が滴って顔に落ちてくる。
傷口に雨が当たって、その度に痛みが走った。でも、もうどうでもいい。
包丁の柄を震える両手でしっかり持って、首に刃先を向ける。
もう……これしかないか。
そのまま思い切り突き刺そうとした時──
「──っ!」
突然だった。
急に誰かの足音が聞こえ、続いて勢いよく両腕を掴まれる。
とっさに振りほどこうとしたけど出来ない。かなり強い力で掴まれているようだった。
「あ……蒼ちゃん……?」
名前が呼ばれたことに驚いて、両手から力が抜けた。
怯えたような、震えた声。それでいてどこか暖かいような、柔らかい声……
──随分久しぶりに聞いた気がする、とても懐かしい声。
顔をあげる。そこには、最後に見たときよりも幾分か大人っぽくなったような、そんな少年の姿。
「やっぱり、蒼ちゃんだよね」
茜……?
一部だけ紺色の、真っ白い髪。赤色の目は、何だかあの頃より少し色が明るくなったように見える。
──何でここに?
彼がいたのは村の近くの森のはず。ここは、あそこから結構離れているのに。
「何……してるの」
彼の顔は強張っていた。腕を掴む手が小さく震えている。
久しぶりに会った友達。本来なら再開を喜ぶべきなのだろうが、そんな余裕も感情もとっくに無くなっていた。
「……離して。僕は──僕には、もう……」
「え?」
困ったような声をあげながらも、彼は手を放してくれない。
「蒼ちゃん……どうしたの?今まで、どこにいたの?何で、一人なの?ねえ、何で、なんで…」
いつの間にか、彼は泣きそうな顔をしていた。小さい頃はよく見ていた表情。
真っ青な顔で立て続けに聞いてくる。
「──何で。死のうと、してるの」
「……!」
一瞬、彼の瞳が濁ったように見えた。
思わず俯いてしまうが、でも──
「……茜。離して」
「何で?……嫌だ。答えてよ」
答えを濁そうとするも、彼は執拗に「何で」を繰り返す。段々腕を掴む手にも力が籠もっていくようだった。
正直、少し驚いた。彼がここまで自分の気持ちを主張してくることなんて、今まであっただろうか。
だけど、僕も僕で焦る気持ちがどんどん大きくなっていく。
早く。早く、皆の所に──
「……僕、死ななきゃ駄目なんだ。早く、二人の所にいかなきゃ」
視界の隅で、彼が目を見開いたのが僅かに見えた。雨の音が強く響く中、一際震えた声が耳に届く。
「……何で」
それまでよりも、低い声だった。こんな声、小さい頃にだって聞いたことが──
「……嫌だ。嫌だよ……蒼ちゃん。やめて。ねえ……お願いだから、やめてよぉ……」
言葉が次々に吐き出される。
気づくと、雨とは違う幾つかの雫が僕を濡らしていた。
彼が……茜が。体を震わせ、涙を溢していた。
彼の両手に、痛いくらいの力が込められる。
流石に顔を上げて彼の姿を見て──今までとは違う、何かよくわからない感覚が背中に走った。
あの重苦しい、真っ黒な空気とは違う。
全身に冷たい水を掛けられたような……どちらかといえば、“恐怖”に近い感情。
思わずもう一度腕に力を込め、無理矢理にでも動かそうとする。──その時。
「ぼく……もう、一人になりたくないよ……」
衝撃。それこそ、雷が体を貫いたような。
唖然として、彼を見上げる。彼は、ハッとしたような、『しまった』という表情で此方を見ていた。
まるで昔、彼の言葉で僕が反応に困ったときみたいな……
多分、彼にとって今の言葉は昔の“それ”と同じようなものだったのだろう。
だけど、僕にとってはそうじゃなかった。
──そうだ。彼は昔から、極端に寂しがりな所があった。
一人になるのをとても怖がって、いつも誰かに付いてきていて──
そのことをすっかり忘れていた。
それどころか……この数年間、僕はずっと自分達が生き残ることだけを考えていて、彼のことなど完全に頭から抜けていた。
途端に言葉にできない感情が沸き上がってくる。
身体に力が入らなくなり、腕が自然に下がっていった。
「……ごめん。僕、君のこと……」
「え?」
茜が目を丸くする。
先程と同じ、困惑したような声。だけど、先程と比べると妙に間の抜けた響きにも聞こえた。
「な、なに……」
戸惑った様子の表情と声。僕は軽く首を振って答える。
「僕……君がいること、忘れてた……今までずっと。あんなに仲良くしてくれたのに。いっぱい、遊んだのに──」
「……蒼、ちゃん……」
「ごめんなさい……僕、君にどれだけ寂しい思いを……!“友達”なのに、僕……ッ!」
また涙が溢れてくる。
駄目だ。僕が泣いてる場合じゃない。
本来なら、泣きたいのは茜の方だろうに──
しかし。必死に止めようとすればするほど、涙は更に溢れ出てくる。
「ごめん。ごめ──」
どうにもならず、ついまた謝ってしまう。
そんな僕の身体が、不意に暖かい何かに包まれた。
「……え」
持っていた包丁が音を立てて地面に落ちる。全身から緊張が解けたように力が抜けていった。
気が付けば、優しく抱きしめられていた。小さい頃、母さんによくされたように。
呆然として、口を動かすことも、視線を移動させることさえできない。
──少し遠慮がちに僕を抱き締めている茜は、暫くしてから口を開いた。
「……ぼくの方こそ、ごめんなさい。ぼく、またわがまま言っちゃった」
「え……?」
やっと顔を上げる。
違う。君が謝ることなんて無い。
……それは、結局言葉にならなかった。
「村、見に行ったんだ。蒼ちゃんがいなくなってから」
「!」
「……酷かった」
声が震えている。あの光景を思い出したのだろう。
当然だ。あんなのを目の当たりにして平気でいられる人なんてそういない。
「蒼ちゃん、大変だったんだよね。会えなかった間、色々あったんだよね。蒼ちゃんがこんなことするくらいだから、あれよりもっと酷いこと……あったんでしょ?」
「あか、ね?」
「蒼ちゃんが辛い思いしてたのに。ぼくこそ、自分のことばっかりだ」
不意に、背中に回された手が、強くなる。
僕は未だに呆然としたまま声も出せない。
茜は……こんなに沢山喋る子だっただろうか。こんなに、大人びた雰囲気だっただろうか。
「──蒼ちゃん。ぼく……今は何も聞かないから。落ち着いたら、後で何があったか教えて。ゆっくりでいいから。
ぼく、全部聞くよ。嫌なことでも辛いことでも、何でも。だから……」
少しだけ身体が離れ、茜の表情が間近に見えた。
目が合うと、彼は少しだけ微笑む。
「ねえ、蒼ちゃん。……涙、我慢しなくても良いんだよ」
色々なものが、一気に込み上げる。
──駄目だ。もう、我慢できない。
それから。思いっきり、声をあげて泣いた。
人が見られているとか、そんなこと考えていられなかった。
多分、あれは人生で一番泣いた瞬間だったと思う。
僕が泣いている間、茜はずっと傍に居てくれた。彼も涙を流して──でも、優しい笑みを浮かべていた。
……生きてた頃の、母さん達に似てる。
すぐ傍にある彼の体温が、とても暖かい。
軽く背中を擦ってくれたのも、何も言わずにただ傍にいてくれたのもとても嬉しかった。でも、何よりも──
今は彼の……茜の存在それ自体が、僕の一番の救いだった。