虹彩の宝石箱 小説置き場

一次創作“虹彩の宝石箱”の関連小説置き場

青銅蒼−4 ひとり

 ふと気が付くと、一人で立っていた。

 建物の中じゃない。外だった。どこか見覚えがあるような景色。

 ここ、どこだっけ。

 いつの間にか降ってきていた雨が座り込んだ僕の体を濡らす。

 ああ、ここは──あの日。叔父に会ったところだ。

 僕が住んでいた村からも、青銅の家からもそこそこ遠い場所。

 不意に視線を落とすと、手には血にまみれた包丁。……叔母が持っていたものだ。

 何故こんなものを持っているんだろう。何でこんなところにいるんだろう──

 ぼんやりとする頭を無理矢理働かせ、記憶を探る。

 

 ──叔母に切り裂かれた藍は、為す術なくその場に倒れた。

 喉ごと切り裂かれたからだろう。声になっていなかったが、悲鳴をあげようとしていたのがはっきりと判った。

 彼女の身体から勢いよく吹き出した血は、身体が倒れ込むと同時に次々と地面に流れ出ていく。

 視界の端で、叔母が凍り付いたのが見えた。

 彼女に纏わりついていた黒いものが見えなくなっている。正気に戻ったのだろうか。

 包丁が音を立てて床に落ちる。

 その音に突き動かされるように、僕は藍に駆け寄っていた。

 いつの間にか、あの重苦しい空気は幾らか軽くなっている。

「藍!」

 自分でも驚くほどの大きな声が、狭い部屋に反響する。

 藍が大きく咳き込む。口から大量の血が溢れ、飛び散った。

 生きている。

「い……今、手当を……」

 包帯を取り出そうと、着物を探る。

 今更そんなことをしても、もうどうにもならない。分かっている筈なのに。

 でも、可能性を考えてしまった。もしかしたら、と思ってしまった。

 村の皆が死んで、母さんも殺され──唯一残った家族さえも失ってしまいそうな状況。

 家族が2人とも目の前で殺されようとしている事への絶望感。

 僕はとっくに冷静な判断が出来なくなってしまっていた。

 ──包帯を出そうとした手が、そっと抑えられる。

 すっかり血の気が無くなった、真っ白な手。

 いつもはあんなに元気なのに、今はとても弱々しい。 

 視線を向けると、藍は諦めたような表情で笑っていた。

「……ありがとう」

 口が動くのと同時、更に血が溢れ出す。

 それを全く意に介さない様子の彼女は、いつか見たような──

「だけどもう……無理だよ。こんなじゃ、いくらなんでもさ」

 眉を八の字に寄せて、微笑む藍。

 あの時の母さんと、全く同じ表情。

「お願い。蒼……早く逃げて。どこか遠いところに行って」

「……!」

 その言葉を聞いた瞬間、一気に肝が冷える心地がした。

 青ざめる僕に、彼女は思い出したように続ける。

「お母さんが言ってた。私、人間の血の方が多いの。だから蒼よりも傷、治りにくいし……沢山血が出たら死んじゃうの」

「え……」

 初耳だった。

 人間の血が多い?どういうことだろうか。そもそも何故?

 僕らは双子だ。血は半分ずつ分けられているはずなのに。

「でも蒼は、まだ生きられるよ」

 同じだと思っていた。藍が僕より傷が治りにくいなんて、知らなかった。

 彼女は僕と違って怪我をすることもめったに無かったから、それで気づきにくかった──?

「蒼なら怪我しても、大丈夫かもしれないけど……でも私。蒼が怪我するとこ見るの、もう嫌だな」

 どく、と心臓が鳴る。そういえば、僕の怪我を一番心配していたのは……彼女だ。

 重ねられた手がどんどん冷たくなっていく。

 叔母は、まだ立ち尽くしたままだ。

「だから、今のうちに逃げて。“怪我”しちゃう前に。早く──」

 言葉が途切れ、藍の手が力なく滑り落ちた。掠れた声が耳に届く。

「ごめんね。私……先に、お母さんのところに、行ってるね」

 藍が、静かに目を閉じた。

 笑顔のまま。普通に眠り込むように。

 わずかに聞こえていた息の音は、完全に聞こえなくなってしまった。

 

 ──何か、壊れるような音が聞こえた。

 

 意識が遠のく。

 暗くなっていく視界の中で、それは確かに聞こえた。

「お前……ッ!」

 口を動かした記憶はない。そんな体力も気力も無かった。

「お前──お前……なんて事を!この少女は、唯一の拠り所だったのに!」

 でもこれは──確かに、僕の声だ。

 叔母が混乱している様子で僕を見ている。

 僕も何がなんだか分からなかった。

 ……式さん?

 いよいよ僅かな意識も保てなくなってきた。周囲の音もゆっくりと消えていく。

 最後に聞いたのは、何か刃物が擦れるような音──そして、誰かが息を飲んだ音。

 

 ──ここから先は記憶がない。

 あの後、式さんは一体何をしたんだろう。

 もしかしたら、意識が途切れたのは彼女の配慮なのかもしれない。

 ふと顔をあげ、隣にいるはずの少女に声を掛けようとして……彼女が、もういないことを思い出した。

「あ……」

 誰もいない。

 母さんも藍も皆。もう、二度と会えない。

 身体から流れ出た血。地面を満たす赤色──光景が、じわじわと蘇ってくる。

「──!!」

 先程の光景が……藍の身体から吹き出た血が、ゆっくり体温が無くなっていく身体が、次々と頭に浮かんでは消える。

 途端に何かが強く込み上げ、口を抑える。

 咄嗟に俯いた時──包丁が目に入った。

 血が付いた包丁。まだ乾ききっていない赤い液体が、地面に広がっている。

 

 ──藍を殺した、包丁。

 

 突き動かされるように手を伸ばした。

 包丁を持ち上げ、目の前に掲げ──そのまま、思い切り腹に突き刺す。

 ざわ、と空気が揺れた気がした。

「ぐ……ぅ……っ」

 鈍い痛みが全身に走る。が、そんなことはとっくに意識の外だった。

 包丁を引き抜き、もう一度──

 勢いのまま何度も体を切りつける。

 腹、腕、足……とにかく、全身。

 手が届くところを手当たり次第刺して、切ってを繰り返す。

 このときの僕は、とにかく早く彼女らのもとに行くことだけを考えていた。

 早く。僕も早く、二人のところに──

 身体のあちこちから流れ出た血は、すぐに僕の全身を赤黒く染めた。

 周囲に飛び散り広がった血が、激しい雨に流されていく。

 “普通の人間”なら、とっくに死んでるぐらいの重症。

 でも、僕は普通の人間じゃない。

 それを今、嫌になるほど実感していた。

 浅い傷じゃ、直ぐに血が止まってしまう。深くつけたはずの傷も、片っ端から治っていく。

 何度やっても、きりがない──

「何で……」

 藍の言葉を思い出した。

 僕には、妖怪の血が多く流れている。怪我は治りやすいし、簡単には死なない。

 だからって、ここまでしても死ねないなんて──

 気づくと、涙か溢れ出ていた。血と涙で、顔がぐしゃぐしゃ。

 だけどそんなこと、気にしてられない。

 最後にもう一度、包丁を持ち上る。腕から血が滴って顔に落ちてくる。

 傷口に雨が当たって、その度に痛みが走った。でも、もうどうでもいい。

 包丁の柄を震える両手でしっかり持って、首に刃先を向ける。

 もう……これしかないか。

 そのまま思い切り突き刺そうとした時──

「──っ!」

 突然だった。

 急に誰かの足音が聞こえ、続いて勢いよく両腕を掴まれる。

 とっさに振りほどこうとしたけど出来ない。かなり強い力で掴まれているようだった。

「あ……蒼ちゃん……?」

 名前が呼ばれたことに驚いて、両手から力が抜けた。

 怯えたような、震えた声。それでいてどこか暖かいような、柔らかい声……

 ──随分久しぶりに聞いた気がする、とても懐かしい声。

 顔をあげる。そこには、最後に見たときよりも幾分か大人っぽくなったような、そんな少年の姿。

「やっぱり、蒼ちゃんだよね」

 

 茜……?

 

 一部だけ紺色の、真っ白い髪。赤色の目は、何だかあの頃より少し色が明るくなったように見える。

 ──何でここに?

 彼がいたのは村の近くの森のはず。ここは、あそこから結構離れているのに。

「何……してるの」

 彼の顔は強張っていた。腕を掴む手が小さく震えている。

 久しぶりに会った友達。本来なら再開を喜ぶべきなのだろうが、そんな余裕も感情もとっくに無くなっていた。

「……離して。僕は──僕には、もう……」

「え?」

 困ったような声をあげながらも、彼は手を放してくれない。

「蒼ちゃん……どうしたの?今まで、どこにいたの?何で、一人なの?ねえ、何で、なんで…」

 いつの間にか、彼は泣きそうな顔をしていた。小さい頃はよく見ていた表情。

 真っ青な顔で立て続けに聞いてくる。

「──何で。死のうと、してるの」

「……!」

 一瞬、彼の瞳が濁ったように見えた。

 思わず俯いてしまうが、でも──

「……茜。離して」

「何で?……嫌だ。答えてよ」

 答えを濁そうとするも、彼は執拗に「何で」を繰り返す。段々腕を掴む手にも力が籠もっていくようだった。

 正直、少し驚いた。彼がここまで自分の気持ちを主張してくることなんて、今まであっただろうか。

 だけど、僕も僕で焦る気持ちがどんどん大きくなっていく。

 早く。早く、皆の所に──

「……僕、死ななきゃ駄目なんだ。早く、二人の所にいかなきゃ」

 視界の隅で、彼が目を見開いたのが僅かに見えた。雨の音が強く響く中、一際震えた声が耳に届く。

「……何で」

 それまでよりも、低い声だった。こんな声、小さい頃にだって聞いたことが──

「……嫌だ。嫌だよ……蒼ちゃん。やめて。ねえ……お願いだから、やめてよぉ……」

 言葉が次々に吐き出される。

 気づくと、雨とは違う幾つかの雫が僕を濡らしていた。

 彼が……茜が。体を震わせ、涙を溢していた。

 彼の両手に、痛いくらいの力が込められる。

 流石に顔を上げて彼の姿を見て──今までとは違う、何かよくわからない感覚が背中に走った。

 あの重苦しい、真っ黒な空気とは違う。

 全身に冷たい水を掛けられたような……どちらかといえば、“恐怖”に近い感情。

 思わずもう一度腕に力を込め、無理矢理にでも動かそうとする。──その時。

 

「ぼく……もう、一人になりたくないよ……」

 

 衝撃。それこそ、雷が体を貫いたような。

 唖然として、彼を見上げる。彼は、ハッとしたような、『しまった』という表情で此方を見ていた。

 まるで昔、彼の言葉で僕が反応に困ったときみたいな……

 多分、彼にとって今の言葉は昔の“それ”と同じようなものだったのだろう。

 だけど、僕にとってはそうじゃなかった。

 ──そうだ。彼は昔から、極端に寂しがりな所があった。

 一人になるのをとても怖がって、いつも誰かに付いてきていて──

 そのことをすっかり忘れていた。

 それどころか……この数年間、僕はずっと自分達が生き残ることだけを考えていて、彼のことなど完全に頭から抜けていた。

 途端に言葉にできない感情が沸き上がってくる。

 身体に力が入らなくなり、腕が自然に下がっていった。

「……ごめん。僕、君のこと……」

「え?」

 茜が目を丸くする。

 先程と同じ、困惑したような声。だけど、先程と比べると妙に間の抜けた響きにも聞こえた。

「な、なに……」

 戸惑った様子の表情と声。僕は軽く首を振って答える。

「僕……君がいること、忘れてた……今までずっと。あんなに仲良くしてくれたのに。いっぱい、遊んだのに──」

「……蒼、ちゃん……」

「ごめんなさい……僕、君にどれだけ寂しい思いを……!“友達”なのに、僕……ッ!」

 また涙が溢れてくる。

 駄目だ。僕が泣いてる場合じゃない。

 本来なら、泣きたいのは茜の方だろうに──

 しかし。必死に止めようとすればするほど、涙は更に溢れ出てくる。

「ごめん。ごめ──」

 どうにもならず、ついまた謝ってしまう。

 そんな僕の身体が、不意に暖かい何かに包まれた。

「……え」

 持っていた包丁が音を立てて地面に落ちる。全身から緊張が解けたように力が抜けていった。

 気が付けば、優しく抱きしめられていた。小さい頃、母さんによくされたように。

 呆然として、口を動かすことも、視線を移動させることさえできない。

 ──少し遠慮がちに僕を抱き締めている茜は、暫くしてから口を開いた。

「……ぼくの方こそ、ごめんなさい。ぼく、またわがまま言っちゃった」

「え……?」

 やっと顔を上げる。

 違う。君が謝ることなんて無い。

 ……それは、結局言葉にならなかった。

「村、見に行ったんだ。蒼ちゃんがいなくなってから」

「!」

「……酷かった」

 声が震えている。あの光景を思い出したのだろう。

 当然だ。あんなのを目の当たりにして平気でいられる人なんてそういない。

「蒼ちゃん、大変だったんだよね。会えなかった間、色々あったんだよね。蒼ちゃんがこんなことするくらいだから、あれよりもっと酷いこと……あったんでしょ?」

「あか、ね?」

「蒼ちゃんが辛い思いしてたのに。ぼくこそ、自分のことばっかりだ」

 不意に、背中に回された手が、強くなる。

 僕は未だに呆然としたまま声も出せない。

 茜は……こんなに沢山喋る子だっただろうか。こんなに、大人びた雰囲気だっただろうか。

「──蒼ちゃん。ぼく……今は何も聞かないから。落ち着いたら、後で何があったか教えて。ゆっくりでいいから。

 ぼく、全部聞くよ。嫌なことでも辛いことでも、何でも。だから……」

 少しだけ身体が離れ、茜の表情が間近に見えた。

 目が合うと、彼は少しだけ微笑む。

 

「ねえ、蒼ちゃん。……涙、我慢しなくても良いんだよ」

 

 色々なものが、一気に込み上げる。

 ──駄目だ。もう、我慢できない。

 

 それから。思いっきり、声をあげて泣いた。

 人が見られているとか、そんなこと考えていられなかった。

 多分、あれは人生で一番泣いた瞬間だったと思う。

 

 僕が泣いている間、茜はずっと傍に居てくれた。彼も涙を流して──でも、優しい笑みを浮かべていた。

 ……生きてた頃の、母さん達に似てる。

 すぐ傍にある彼の体温が、とても暖かい。

 軽く背中を擦ってくれたのも、何も言わずにただ傍にいてくれたのもとても嬉しかった。でも、何よりも──

 今は彼の……茜の存在それ自体が、僕の一番の救いだった。