男の子と出会ってから、結構な時間がたった。
あれから頻繁にあの子と会うようになって、いくつか分かったことがある。
まず。村の人達が話していた“化物”は、どうやらやっぱり彼のことだったらしい。
昔から災害や事故が起こるのが何となくわかる──と、言っていた。
でも話を聞く限りだと、別に彼が“呼び寄せてる”わけでは無さそうだった。
もしかしたら、“災いを呼ぶ化物”なんてのは……そもそも勘違いなのかもしれない。
災害を伝えようとしたら──ってことも、確か言っていたから。
それから、彼には名前が無かった。
正直、最初は信じられなかった。人間じゃないというのは本人も言っていたし、疑ってはいなかったけれど。
妖怪でも、名前はあるものだと思っていたから。……母さんの友達の、芙蓉さんみたいに。
まあ……人間じゃないなら、名前を付けてくれる人がいなかったなら……それも仕方ないのかもしれない。
そう、無理やり納得した。
でも、やっぱり名前が無いと不便だ。呼べないし。
何となくそんなことを漏らすと、彼は──僕に名前を付けてほしいって、そう言った。
一瞬、冗談で言っているのかと思った。それか、いわゆる“あだ名”って意味で言ったのか、と。
会って数日の、親でもない僕が“名前”を付けるなんて。そう思っていたから。
だけど。そう言う彼は、あまりにも真面目な顔をしていた。
冗談だって笑って終わらせるなんて、絶対出来ないくらい。
だから、暫く考えて──結局、『茜』と呼ぶことにした。
目の色……印象的な、茜色をしているから。
少し女の子っぽいかなとも思ったが、存外気に入ってくれたようで安心した。
そういえば、あの時は何であんなにせがまれたんだろう?……まあ良いか。
それと。なぜか、茜は知ってることと知らないことの差がかなり大きい。
たった数日間の間なのに、たくさんの事を尋ねられた。
物の名前や言葉、文字、人間の習慣まで──
その度説明をすると、彼は興味津々といった様子で相槌を打ってくれる。
この子って、どういう生き方をしてきたんだろう。
話を続けるたび、会うたびに疑問が深まっていった。
ただ……何となく怖くて、直接聞いたことは無かったけれど。
✽
ある日、茜を家に連れ帰って泊めたことがあった。
寒くなってきたし、流石にこんな木の下にずっといるのもどうかと思ったから。
申し訳ないからって首を横に振る茜を、何とか説得した。
それから一応、大人の人に見られないように──もう一方の森の出口から、裏の方を通って行った。
事前の連絡もろくにしてないし、もしかしたら怒られるかも……と、思ったけど。
意外なことに、藍も母さんもあっさり受け入れてくれたし、母さんなんかは新しい着物を縫ってあげていた。
新しい、綺麗な着物を着た彼は、暫くはもの珍しそうに自分の姿を眺めていた。でもすぐに、鏡を見ながら嬉しそうにしていたのが印象に残っている。
その笑顔を見ている内、何故だか僕まで嬉しくなったりしてきたりして──
──それから。母さんだけでなく、藍の方も茜を気に入ったらしい。
手を引いて家の中を案内したり、お姉さんみたいに本を読んであげていたり……とにかく楽しそうに、世話を焼いていた。
肝心の茜が少し引いてしまっていたくらい。
でも、流石は藍。いつの間にか、茜ともすっかり仲良しになっていた。
そういえば、他の子達にも茜の事を紹介してくれたのも藍だ。彼女のおかげで、茜も皆と一緒に遊ぶことが増えた。
白い髪に赤い目なんて珍しい見た目だから、流石に最初は皆かなり驚いていたけど。すぐに慣れて受け入れてくれた。
──もちろん、茜が“マガヅレ”と呼ばれている化物そのものであることは隠して。
正直、そのことは藍どころか母さんにも伝えてない。
それを伝えてしまったら、どういう反応をされるか……怖かったから。
皆にも受け入れられてきて、最初は不安がっていた茜もだんだんと笑顔が増えてきた。
とはいえ、大抵は僕と茜の2人で話をしたり、遊んだりすることが多かった。
──そうして茜と一緒に過ごしていくうち、少し気になったこと。
あの子は、妙に“寂しがり屋”なところがある気がする。
普通ならそんなこと気にする必要なんて無い。でもあの子は、何か……
普通の人とは、少し違うような──
1番強くそう感じたのは、僕が遊びの誘いを断った時。
そういう時、茜も必ず遊ぶのを断って僕に付いてくる。それで結局、その日はまた2人で話をして過ごすのだ。
茜だけ皆と一緒に遊びに行くなんてことは、思い出してみても一切無い。
それに、茜が自分から僕以外の誰かに話しかけようとすることも、僕が知る限りでは全く無かった。
それだけで、と思われるかもしれない。僕も最初は全然気にしていなかった。
嫌だと思ったことも特になかった。何となく、まだ皆に慣れていないんだろうとばかり思っていたから。
他の人よりも寂しがり屋なだけ。もしくはまだ、他の人たちと完全に打ち解けられてないだけ──言ってしまえばそうなのかもしれない。
僕に会うまではずっと一人でいたみたいだし、藍達に紹介するまでは僕としか遊んでいなかったのだから。
ここの村の人達には一度殺されかけたこともあるわけだし、他の人を怖がるのも無理はないかもしれない。
──本当にそれだけだろうか。
茜は、僕が帰ろうとすると必ず悲しそうな顔をする。それに、他の人と話す時は必ず僕の手や服を握るのだ。
邪魔をしないようにと他の場所に移ろうとしたことがあったけど、意外に力が強くて驚いた記憶がある。
そういうときの茜は、まるで何かを怖がっているようで。
怯えるような、すがるような目で僕を見てくる。
一度話を聞いた方が、と何度も思った。でも、聞いてはいけないことがあるような気がして、どうしてもそれが出来ない。
せめて母さんにでも相談するべきだろうか。
……迷っているうちに、そんな時間はすっかり無くなってしまった。
✽
茜と初めて出会った同じ、本当に普通の日だった。
いつも通り外に出て、いつも通り茜と話し、いつも通りに家に帰る。
──普通の日の筈だった。
「な……なに、これ……皆……?」
藍の声が震えている。
僕は声すら出せず、その隣で呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
何故?
僕達の視界いっぱいに広がっているのは──
血の海。
黒がかった赤が瞬く間にこちらまで広がってくる。
村の人達が何人か、赤色に沈んでいるのが見えた。
その中には、つい先程まで藍と遊んでいた子の姿もある。
皆、身体に大きな穴が開いていた。
何か打ち込まれたような、貫かれたような。
丁度、丑の刻参りで使われた藁人形みたいに──
重苦しい空気が肌に纏わりついてくる。
頭が回らず呆然としていると、不意に藍が思い出したように叫んだ。
「……お母さん。お母さん!!」
その声に、僕も我を取り戻す。
そうだ。母さんは無事だろうか。
もし、無事だったら──母さんならこの状況をどうにか出来るかも。
もしかしたら、今まさに戦っている最中……かもしれない。それなら僕らも手伝わなきゃ。
そんな期待が湧く。
そうして、どちらからともなく家に向かって走り出した。
この現実から、目を逸らすように。
……結論から言うと、母さんは、死んではいなかった。
だけど彼女も血まみれで、生きているのが奇跡なほどの瀕死の状態に見えた。
唖然としてしまった。今まで、こういうのは本の中でしか見たことがない。
それに、母さんがここまで弱ってるなんて。何か妖怪が原因のこの状況じゃない、ということ……?
混乱して、色々な考えが頭の中を巡る。
藍が泣きそうな声で叫び、母さんに駆け寄るのが見えた。
分かるのは、今僕が見ているこの光景が、現実なのだということだけ。
酷い鉄の匂いが鼻に届く。
これは現実で、大切な母さんが、目の前で死のうとしている──
「!」
そこらで、ようやくしっかり我に帰った。僕も急いで、母さんに駆け寄る。
そこでようやく気づいたが、彼女の身体にはもやのようなものが纏わりついていた。
この村全体を包んでいるのと同じような、それが凝縮されたような、とてつもなく重い空気。僕たちは揃って顔を青くする。
そんな中、僕らを見た母さんは安心したような表情をしたように見えた。
「逃げて」
小さく唇が動く。固まる僕らに、彼女は苦しそうに口を開いた。
「逃げなさい。この村に留まっていては駄目。出来るだけ、遠いところに」
弱々しくそう言い、僕らに微笑んで見せた。
その口から次々に血が溢れ出してくる。
藍が叫ぶ。
「どうして!?ねえお母さん、何があったの?皆、どうしちゃったの?何で、何で……」
彼女の声には涙が混じっていた。僕は一言も発することが出来ない。
彼女はそのまま、母さんに近づこうとして、
「危ない!」
勢いのまま、咄嗟に彼女を抱き寄せる。
風を切り裂く音がして、でも直ぐに静かになった。恐る恐る目を開く。
「…ぁ」
そこには、真っ黒い“何か”に心臓を貫かれた母さんがいた。
弱々しかった呼吸音も、既に聞こえない。
「お……お母さん……」
震える声で藍が呟く。
……死んだ。死んでしまった?
母さんが。殺された……?
母さんの心臓を貫いたそれは“棘”のように見えた。とはいえ、植物にしてはあり得ない場所程大きい。
そして、かなり長く僕らの眼前まで伸びていた。
あの時判断が遅れていたら、藍も……
そう考えると、背中に冷たいものが走る。
……だけど、その正体が何かなんて考える暇も無かった。
「──!」
突然、それがまるで意思を持っているかのように動き出す。
ぐちゃ、と“何か”の音が聞こえた。
そしてそれは、ゆっくりと、此方へ焦点を定める。
「っ!」
動けなくなっている藍の手を引き、何とかそれをかわす。その瞬間、母さんと目があった。
暗い瞳。ぐちゃぐちゃになった液体が溢れだしている。
ああ──母さんの顔、あんなに綺麗だったのに。
その瞬間、母さんの「逃げなさい」という声が、頭に蘇った。
勢いよく藍の手を引き、 走り出す。
「蒼!?」
彼女の驚く声が聞こえるが、気にする余裕は無い。
守らなくちゃ。せめて、この子だけでも。
ここから……この村から、なるべく遠いところへ。
必死だった。とにかく逃げないと、とそればかりで。
「あ、蒼まって……足、早いよう……」
息も絶え絶えといった様子の藍の声が耳に届いたが、立ち止まることはできなかった。
これからどうするかなんて、何も考えていない。
遠くへ。もっと安全な場所へ──
その時の僕は、様々な感情で頭が一杯になってしまっていた。
恐怖、焦燥、混乱──他にも色々。
藍が僕を迎えに来た、その数刻の間に起こった惨劇。
妖術師の母さんでさえ対処できなかった、強大で禍々しい“何か”。
本の中でもそうそう見ないような急展開に慌てて、すっかり忘れてしまっていた。
──森の中で一人で待ってる、寂しがり屋のあの子のことを。